れきしぶんか

Jホラーの再興と『リング』の遺産:日本発の恐怖がいかに世界を魅了したか

近年、日本のホラー映画が再び脚光を浴びています。かつて世界的現象を巻き起こした『リング』は、ハリウッドでのリメイク版も成功を収め、その恐怖は国境を越えて多くの観客を魅了しました。この記事では、故・鈴木光司氏の原作小説と映画版『リング』の違いに焦点を当てながら、Jホラーの核となる恐怖の源泉を紐解いていきます。

2026年1月には、日本映画専門チャンネルが「甦る恐怖 Jホラーセレクション」と題した特集を組み、90年代の作品を「初代Jホラー」、2020年代の作品を「新世代ホラー」と位置づけました。1998年公開の『リング』が初代Jホラーの代表作として挙げられ、その後も『呪怨』や『着信アリ』といった話題作が続き、90年代後半から2000年代前半にかけてJホラーは全盛期を迎えました。一時期の低迷を経て、2020年代には映画『犬鳴村』のヒットを皮切りに、ネット怪談や都市伝説を題材にした作品、フェイクドキュメンタリー形式の作品が台頭し、再び「令和ホラーブーム」として活性化しています。

『リング』の映画が観客に与えた最大の衝撃は、貞子がテレビ画面を突破して現れるシーンでした。しかし、この象徴的な場面は映画版の独創であり、鈴木光司氏の原作小説には登場しません。原作における貞子は、主人公の背後に忍び寄る「気配」として描かれ、「長い黒髪、白い服」という映画で定着した姿ではありませんでした。2002年にハリウッドでリメイクされた『ザ・リング』は、全世界で約2億4900万ドルの興行収入を記録し、その主人公は日本版映画と同様にシングルマザーでした。ハリウッド版の呪いの根源であるサマラ・モーガンも、生い立ちは異なりますが、「長い黒髪、白い服」という貞子と共通する容姿で描かれ、Jホラーが生み出した視覚的恐怖のイメージは世界中に広まりました。映画『リング』、そして『ザ・リング』へと続くこの「長い黒髪・白い服」の貞子像は、どのようにして確立されたのか、その源流を探るためには、Jホラー初期のオリジナルビデオ作品に目を向ける必要があります。

Jホラーの普遍的な魅力は、単なる視覚的な恐怖だけでなく、心理に深く作用する不安や不気味さを追求するところにあります。現代社会においても、この独特な恐怖の表現は、新たなメディアや表現形式と融合しながら進化し続けており、観る者に深く考えさせる普遍的なテーマを内包しています。私たちが日々の生活の中で見過ごしがちな「普通」の背後にある、微細な歪みや日常の中に潜む異常を描き出すJホラーは、今後も私たちの想像力を刺激し、新たな恐怖の地平を切り開いていくことでしょう。

愛媛県立とべ動物園の動物福祉への取り組み:アフリカゾウ家族とオランウータンの国際繁殖プロジェクト

愛媛県砥部町に位置する愛媛県立とべ動物園は、開園以来の理念である「レクリエーション」「調査・研究」「種の保存」「環境教育」に加え、近年では「動物中心主義」を掲げ、動物たちの生活の質の向上に積極的に取り組んでいます。この哲学に基づき、彼らは動物たちの精神的・身体的健康を科学的根拠に基づいて維持することを目指しており、これは単なる人間目線の「動物愛護」とは一線を画しています。

園長の池田敬明氏(51歳)は、大型動物、特にゾウの飼育における課題について語ります。ゾウの導入は、飼育施設の整備や国際条約の遵守という点で容易ではありませんが、とべ動物園では、ゾウ本来の群れで生活する習性を尊重し、家族単位での飼育を実践しています。南アフリカ共和国からやって来たメスのアフリカゾウ「リカ」は、2歳の時にオスのアフと共に来園し、その後「媛」(メス)、「砥夢」(オス)、「砥愛」(メス)という子宝に恵まれました。現在は、リカと娘の媛、砥愛が共に穏やかな生活を送っており、来園者からも親しまれています。

とべ動物園の動物福祉への取り組みは、ゾウに留まりません。キリンやライオンも家族単位で飼育されており、動物たちが自然に近い環境で暮らせるよう配慮されています。さらに、同園は昨年12月にインドネシアからメスのボルネオオランウータン「ジェニファー」を迎え入れました。これは、すでに飼育していたオスの「ハヤト」の繁殖相手として、インドネシアのタマンサファリ・インドネシアと共同で進めている国際繁殖プロジェクトの一環です。オランウータンはインドネシアが国を挙げて保護している希少種であり、このプロジェクトの成功は、とべ動物園の高い繁殖技術と飼育管理能力が国際的に認められた証しと言えるでしょう。

このように、愛媛県立とべ動物園は、単に動物を展示するだけでなく、動物たちの目線に立った飼育環境の充実と、種の保存に向けた国際的な取り組みを通じて、現代の動物園のあり方を追求し続けています。

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小栗忠順:若き日の非凡な才能と個性

日本の近代化を推進した幕末の重要人物、小栗忠順(おぐりただまさ/上野介)は、若い頃からその並外れた才能と個性で知られていました。周囲の雰囲気に流されることなく、自身の信念を貫くその姿勢は、多くの同時代人にとって驚きをもって受け止められました。花見の宴においても、彼は風雅な景色や酒、女性には興味を示さず、ひたすら河川の治水について熱弁をふるうなど、その行動は常に周囲の予想を裏切るものでした。

この非凡な青年の豪胆な性格は、彼の青少年時代の様々な逸話からも垣間見えます。三河譜代の名門旗本の嫡男として将来を嘱望されていた彼は、恐れを知らない気質を早くから発揮しました。たとえば、安積艮斎塾での同門であった旗本の栗本鋤雲は、小栗が講義の場で寡黙でありながらも、自身の意見を頑として譲らない、大胆不敵な人物であったと証言しています。また、悪戯をする際には、他の子供たちを巧みに操る「ガキ大将」としての統率力を見せ、後の改革者としての片鱗を伺わせていました。他人の議論に耳を傾けず、自身の見識に絶対の自信を持っていたため、「理屈屋」と評されることもありましたが、それは彼が自己の信じる道を迷わず突き進んだ結果であり、時として周囲との摩擦を生むこともありました。ある花見の際、隅田川で船を浮かべ、桜を愛でる風流な席でも、小栗は川の堰の高さや治水の利点について語り始め、共にいた朝比奈昌広らを呆れさせたという逸話は、彼の仕事への情熱と一途な性格を象徴しています。彼は風流を解さない「冷腸漢」と評されることもありましたが、書画を愛する一面も持ち合わせていました。しかし、その書画に対する審美眼も独特で、自身が直接見聞きしたものでなければ、古人の作品であっても真贋不明なものとして価値を認めないという徹底ぶりでした。

小栗忠順の若き日の姿は、単なる頭脳明晰な人物にとどまらず、強い信念と独立した思考を持つ、異彩を放つ個性的なリーダーであったことを示しています。彼の人生は、既存の枠にとらわれず、常に新しい価値を創造しようとする探求心に満ちていました。

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