ホルムズ海峡航行の「出光丸」が示す日イラン関係の深層

米国とイランの間の緊張が高まる中、解決の糸口が見えない状況が続いています。特に10月1日には、アメリカの原子力空母「セオドア・ルーズベルト」が中東に派遣され、合計3隻の空母体制でイランに圧力をかけていると報じられ、米中間選挙を控えて緊迫した駆け引きが繰り広げられています。
この対立の発端は、2月28日のアメリカとイスラエルによる攻撃であり、これに対しイランがホルムズ海峡の封鎖で応じたことで、世界経済に影響を及ぼす紛争へと発展しました。一時的にペルシャ湾内には、日本関連の船舶約40隻を含む約1500隻の船が取り残される事態となりました。このような状況下で、サウジアラビア産原油200万バレルを積んだ出光興産の子会社タンカー「出光丸」が、4月28日にイラン政府の承認を得てホルムズ海峡を無事通過し、5月下旬には日本へ帰港しました。アメリカの同盟国である日本のタンカーが通過したことは、国際的にも大きな注目を集めました。日本政府も出光興産も、この通過に関して金銭的なやり取りなどの「取引」を否定しており、その背景にはどのような事情があったのか、筆者は9月にイラン大使館を訪れ、ペイマン・セアダット駐日大使に直接インタビューを行いました。
日本とイランの友好的な関係は、1953年の「日章丸事件」にその原点があります。第二次世界大戦後、イランがイギリスの管理下にあった石油の国有化を宣言した際、イギリスは軍艦を派遣してイランの港を封鎖し、他国との取引を妨害しました。このような状況下で、出光興産の創業者である出光佐三は、1953年3月に「日章丸」を秘密裏に派遣。この船はイギリス海軍の包囲網を突破してイランのアバダーン港に到着し、5月には石油を日本に運びました。この「日章丸」と「出光」の行動は、大国の圧力に屈せず独自の道を進んだ日本の象徴として、イランの人々の記憶に深く刻まれています。駐日大使も、2023年の着任以来、「日章丸以来の日本との絆」を繰り返し強調してきました。今回のインタビューで大使は、「出光丸」のホルムズ海峡通過の裏側を初めて明かしました。イラン大使館は事前に日本の外務省とペルシャ湾内の日本関連船舶について協議し、全タンカーのリストを受け取った上で、「日章丸以来の歴史があるのだから」とテヘランの政府を説得し、「出光丸を最優先で通過させるよう私が提案した」と述べました。さらに大使は、「出光丸」が愛知県知多市に入港したのを見て深く感動し、出光佐三が眠る北鎌倉の東慶寺を訪れて参拝したというエピソードも語り、これにより「両国の歴史にさらに深い敬意を抱くことができた」と述べました。
「日章丸事件」を契機とした日本とイランの友好関係は、1970年代には日本の大型石油プロジェクトなどとして具体化しました。1979年のイスラム革命により米国がイランとの国交を断絶した際も、日本政府は米国の圧力に屈することなく外交関係を維持する独自路線を貫きました。1980年代のイラン・イラク戦争時には、両国と外交関係を持つ唯一の主要国として、当時の安倍晋太郎外相が仲介外交を展開しました。そして、「核合意」を巡る米国とイランの対立が深まった2019年には、息子の安倍晋三首相がテヘランを訪れ、最高指導者ハメネイ師と会談するなど、日本はイランと国際社会との架け橋として独自の役割を果たし続けてきました。
歴史は時に複雑な国際関係の羅針盤となり、予期せぬ困難な状況下でも、過去に培われた信頼と理解が未来への道を開くことがあります。日本とイランの関係は、まさにその証左であり、互いの独立性を尊重し、対話を通じて問題を解決しようとする姿勢は、国際社会における持続可能な平和と安定を築く上で、重要な模範となります。国と国との絆は、単なる経済的利益や政治的駆け引きを超え、共有された歴史と互いへの敬意によって深まります。このような関係は、未来の世代にとって、希望に満ちた国際協力のあり方を示唆していると言えるでしょう。