予期せぬ米軍攻撃:沖縄大空襲の知られざる真実

予期せぬ猛攻:沖縄大空襲の全貌
B-29の脅威と日本の防衛戦略
1944年の太平洋戦争中、日本はドーリットル空襲に続き、二度目の本土空襲を九州の八幡で経験します。この際、日本軍を苦しめたのは、アメリカ軍の巨大な爆撃機B-29、「超空の要塞」と称される機体でした。一体なぜ、このような高性能爆撃機が開発されたのでしょうか。そして、その脅威を目の当たりにした日本軍は、どのように対応しようとしたのでしょうか。この記事では、八幡空襲の後に発生した沖縄大空襲における両軍の攻防について、元防衛大学校教授の源田孝氏が深く掘り下げて解説します。
予期せぬ沖縄への侵攻
1944年10月、マリアナ諸島の制圧を終えたアメリカ軍は、フィリピン侵攻の準備を進めていました。これに先立ち、米海軍はフィリピンの日本軍を航空支援する拠点を排除するため、南西諸島への攻撃を決定します。攻撃部隊は第3艦隊所属の第38任務部隊で、空母や戦艦、巡洋艦、駆逐艦からなる大艦隊でした。一方、日本陸軍は第32軍のもと、沖縄本島と八重山諸島に部隊を配備していましたが、米軍の本格的な侵攻はフィリピン戦後、1945年3月以降と予測していました。10月10日の米軍来襲まで、南西諸島は大規模な空襲を経験したことがなく、本土でのB-29による空襲が始まっていても、沖縄では危機感が薄れていました。当時、沖縄では県民の本土や台湾への疎開が進行しており、那覇港や運天港には軍需物資や避難民を運ぶ多くの船舶が停泊していました。沖縄にはレーダーサイトや高射砲、高射機関砲が配備され、防空航空機も存在していましたが、日本海軍情報部が米軍の動向を追跡していたにもかかわらず、10月6日以降、第38任務部隊の所在を見失ってしまいます。日本軍は偵察飛行を行いましたが、米軍は日本の哨戒機をレーダーで捕捉し、次々と撃墜。日本軍は未帰還機が悪天候によるものと安易に判断してしまいました。さらに、日本軍の不運は重なり、10月10日に予定されていた「兵棋演習」のため、各司令官や参謀は9日には那覇に集まっており、その夜は宴会が開かれていました。このため、10日朝は各部隊の指揮官が不在となり、対応が遅れる原因となります。また、兵士たちには「演習」としか知らされていなかったため、高射砲の砲撃も「実戦的な演習」と誤解する者が多く、住民も空襲を演習と受け止めていました。加えて、故障が多かった日本のレーダーは、突然現れた多数の航跡を故障と見なし、報告されませんでした。結果として、沖縄の軍民は米軍の攻撃を全く予期せず、完全な奇襲を受けることになったのです。