出雲の伝統と哲学が息づく日本酒「天穏」

島根県出雲市は、『古事記』の舞台であり、壮大な出雲大社がそびえる地です。この歴史ある場所で、明治4年から続く板倉酒造が「天穏(てんおん)」という銘柄の日本酒を世に送り出しています。この酒は、神々に捧げる御神酒のごとく、静かで奥深い味わいの中に清らかさを宿しています。
「天穏」という名前には、「天に穏やか」という意味が込められており、初めて目にする人には読み方が難しいかもしれませんが、「てんおん」と読みます。この「穏」という文字こそが、この日本酒の核心をなす大切な要素です。1871年(明治4年)に創業された板倉酒造は、出雲市の塩冶町(えんやちょう)に蔵を構えています。銘柄の起源は仏典の一節「無窮天穏」にあり、これは永遠の平和を願う深い思いを表現しています。元杜氏であり醸造顧問を務めた小島達也氏の言葉からは、自然、神々、祖先、そして土地の営みへのアニミズム的な敬意が強く感じられます。出雲大社を擁するこの地で酒造りを行う板倉酒造は、「御神酒のように穏やかで清らかな酒を造りたい」という一貫した志を持ち続けています。この理念は、小島氏が提唱する「山陰吟醸」の醸造法によって具体化されています。低温で長期間発酵させる吟醸造りの技術を駆使しつつも、華やかな香りを追求するのではなく、米の芯部だけを丁寧に溶かすことに集中する手法は、「吟味して醸造する」という言葉の本来の意味を体現していると言えるでしょう。
「天穏」は、出雲の地酒として確固たる地位を築いています。出雲は、『古事記』や『日本書紀』にも登場する神話の舞台であり、酒造りの神を祀る佐香神社(さかじんじゃ)も存在します。『出雲国風土記』には、神々が酒を造り、盛大な酒宴を開いたという記述があり、この地が酒造りの起源であるという言い伝えがあります。このような神話や酒造信仰が色濃く残る土地で酒造りを行うことは、小島杜氏にとって計り知れない意味を持っていました。小島氏の個人のブログには、日本酒と神道の深いつながり、そして出雲という土地への熱い思いが丁寧に綴られています。フランスの文化人類学者レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」(「手元にあるもので工夫する」「この場所でできることから生まれるものの大切さ」)という概念も引用されており、その造り手の哲学の深さが伝わってきます。さらに、小島氏は「共食(きょうしょく)すること」を非常に重視しており、酒を通じて人々とつながり、さらには神々とも結びつく場を創出することを目指しています。この「天穏」には、そのような共生の思いが込められています。
「天穏」は、島根県出雲市の豊かな歴史と文化、そして板倉酒造の職人たちの献身的な努力によって生み出された、まさに唯一無二の日本酒です。その名前と味わいは、古き良き日本の精神と、現代に息づく酒造りの哲学が融合した証であり、飲む人々に穏やかな感動と深い共感をもたらし続けています。