夏目漱石の最後の正月:病と生の覚悟

終わりを意識しながら、限りある生を全力で生き抜く
晩年に迎える新春と過去の追憶
大正5年、49歳を迎えた夏目漱石は、自身の居宅である「漱石山房」で正月を祝いました。この特別な日、彼は長寿を願うお屠蘇を口にし、贅沢に松茸が加えられたお雑煮を味わいながら、新春の喜びを感じていました。当時の日本においては「人生五十年」という観念が広く浸透しており、自身の年齢を顧みる時、漱石の心には深い感慨が去来したことでしょう。かつて学友の正岡子規に宛てた書簡に記した「定業五十年の旅路をまだ半分も通りこさず既に息竭き候」という言葉は、彼が若かりし頃から命の儚さを感じていたことを物語っています。子規は漱石が英国留学中に早世しており、友人たちの死が彼の人生観に大きな影響を与えていたことは想像に難くありません。
「点頭録」に込められた自己への問いと覚悟
同じ正月の日、東京朝日新聞には漱石の随筆「点頭録」の第一回が掲載されました。この文章は、「また正月が来た。振り返ると過去が丸で夢のやうに見える。何時の間に斯う年齢を取つたものか不思議な位である」という一節から始まり、自己の存在の認識と時間の流れに対する彼の深い洞察が表現されています。漱石は、自己の存在が極限まで無に等しいと解釈できる一方で、現在の自分が厳然として存在するという二つの見解を抱き、新たな年を迎える自身の人生を大正時代の潮流に任せる覚悟を表明しました。この覚悟は、唐代の禅僧・趙州の生き様になぞらえられています。趙州和尚は61歳で道を志し、120歳まで衆生を教え導いたと伝えられています。漱石は、自分もまた趙州のように、寿命の限り自身の才能を尽くすことを誓います。
病との闘い、そして尽きることなき創作への情熱
漱石の人生は病との闘いでもありました。21歳の時には、兄二人を失うという悲劇を経験し、病床に伏す兄の看護にあたったこともありました。また、6年前の44歳の時には、胃潰瘍で入院し、療養中に大吐血して意識不明に陥るという九死に一生を得る経験をしています。それ以来、体の不調に悩まされ、髪や髭も白くなり、老いの兆候は顕著でした。しかし、50歳を目前にした漱石は、趙州の生き方に倣い、自らの命が続く限り奮励する決意を新たにします。「点頭録」の結びには、「古仏と云はれた人の真似も長命も、無論自分の分ではないかも知れないけれども、羸弱なら羸弱なりに、現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於ての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を尽さうと思ふのである」と記されており、病弱な身でありながらも、与えられた命と才能に感謝し、それを最大限に活かそうとする彼の強い意志が示されています。彼はこの時、自身の死が遠くないことを意識しつつも、まだ残された時間があると信じていたのかもしれません。しかし、残念ながら、この正月が漱石にとって最後の新年となったのです。