始皇帝の挑戦と危機:暗殺未遂と仙人探しの旅

『キングダム』によって多くの人々が関心を寄せる秦の始皇帝は、中国史上でも特に重要な人物の一人です。彼の治世を理解する上で不可欠な史料である『史記』には、皇帝が即位後に実施した様々な政策や、彼が直面した困難が詳細に記されています。この記事では、歴史作家・島崎晋氏による『いっきに読める史記』から、始皇帝が経験した暗殺未遂事件や、仙人探しの物語、そして彼の有名な政策である「焚書坑儒」の背景に迫ります。
始皇帝は、その統治期間中に多くの巡幸を行いました。即位から27年目には隴西・北地を、翌28年には東方へ巡り、泰山と梁父山で封禅の儀式を執り行い、その権威を内外に示しました。この旅の途中、彼は不老不死を求める切なる願いから、斉の徐市が提案した仙人探しの計画を受け入れ、数千人の童男童女を蓬萊、方丈、瀛州の三神山へ派遣しました。また、周の宝である鼎を泗水から引き上げようとしましたが、これは成功しませんでした。
しかし、始皇帝の巡幸は常に平穏なものではありませんでした。29年目の東方巡幸中、陽武の博浪沙において、彼は暗殺者による襲撃を受けます。この事件の首謀者は、秦によって滅ぼされた韓の遺臣である張良でした。張良は韓の復讐を誓い、家財を投じて力士を雇い、120斤の鉄槌を使って始皇帝の乗る車を狙いました。しかし、鉄槌は別の車に命中し、始皇帝は間一髪で難を逃れます。この未遂事件後、始皇帝は大規模な捜索を命じましたが、張良を捕らえることはできませんでした。
さらに、30年目のある夜には、始皇帝が四人の武士を伴い咸陽の市街を秘密裏に視察していた際、蘭池のほとりで盗賊に襲われる事件が発生しました。幸いにも武士たちの活躍により始皇帝に怪我はありませんでしたが、この出来事もまた、彼の身辺に潜む危険と、それに対する警戒心を高める要因となりました。これらの事件は、始皇帝が強大な権力を手にした後も、常に脅威に晒されていたことを示しています。
このように、始皇帝の治世は、強大な権力掌握の裏で、常に身の危険に直面し、時には超自然的な力にまで希望を見出すという、人間的な側面も持ち合わせていました。これらの経験が、彼の後の政策、特に思想統制を目的とした「焚書坑儒」にどのように影響を与えたのかは、歴史を深く読み解く上で非常に興味深いテーマと言えるでしょう。