幻の京王御陵線、その誕生から廃止、そして現代への軌跡

この歴史的な鉄道路線は、大正天皇の終焉後に八王子に設けられた「多摩御陵」、現在の武蔵陵墓地への交通手段として、その計画が始まりました。昭和初期に複数の鉄道会社が路線建設を提案する中、京王電気軌道(現在の京王電鉄)が敷設免許を獲得し、「京王帝都電鉄御陵線」として開通しました。この路線は、高尾駅から御陵前駅(後に多摩御陵前駅と改称)を結び、多くの参拝客を運びましたが、第二次世界大戦の激化により、国からの命令で鉄材を供出するため運行を休止しました。戦後、再開されることなく廃線となり、その一部は今日の京王高尾線に姿を変えましたが、大部分は都市計画道路や別の開発用地としてその役目を終えました。しかし、その痕跡は今も地域に残り、当時の面影を偲ばせています。
多摩御陵への鉄道計画と京王御陵線の誕生
1926年(大正15年)12月25日の大正天皇崩御後、その陵墓として八王子市に「多摩御陵」が選定されました。この皇室の陵墓への交通手段として、複数の鉄道会社が新路線の建設を計画しました。当時の最寄り駅は、現在のJR高尾駅にあたる浅川駅でしたが、そこから御陵までは約2キロメートルの道のりを歩く必要があったため、多数の参拝客を見込んだ鉄道各社が競って路線の出願を行いました。この競争の中で、最初に名乗りを上げた京王電気軌道が、1927年(昭和2年)1月8日に新線建設の許可を得ました。これに続き、相模鉄道と八王子電気鉄道も出願しましたが、鉄道省の調整により、最終的に京王電気軌道に敷設免許が与えられました。この決定により、京王御陵線は多摩御陵への主要なアクセス路線としてその歴史をスタートさせました。
京王御陵線は、1931年(昭和6年)3月に開業し、高尾駅から多摩御陵前駅を結ぶ重要な役割を担いました。皇室の陵墓へのアクセスとして、この路線は多くの人々に利用され、地域の発展にも貢献しました。当時の交通インフラとしては画期的なものであり、大正天皇の御陵への参拝を容易にしました。路線の建設は、八王子地域の交通網の整備を促進し、周辺地域の活性化にも繋がりました。多摩御陵を目指す鉄道計画は、複数の企業が参入を試みるほど注目されており、その中で京王電気軌道が実現させた御陵線は、その歴史的背景と社会的な期待を背負って誕生しました。
戦時下の休止と現代への変貌
開業後、順調に運行を続けていた京王御陵線ですが、第二次世界大戦の影が日本全体を覆い始める中で、その運命は大きく変わりました。戦時体制が強化されると、鉄道運営に必要な鉄材は軍事転用のため供出が求められるようになりました。1945年(昭和20年)1月、政府の命令により、京王御陵線は電車の運行を休止せざるを得なくなりました。これは、単なる運行停止ではなく、事実上の廃線への第一歩でした。線路の鉄材が戦時物資として回収されたため、戦後に路線を再開することは極めて困難な状況となりました。約20年が経過し、1964年(昭和39年)には正式に廃線となり、その歴史に幕を閉じました。しかし、この路線の全てが失われたわけではありません。
御陵線の廃止後、その一部の区間は、1967年(昭和42年)10月に開通した京王高尾線として生まれ変わりました。特に、北野駅から現在の山田駅、めじろ台駅にかけての区間は、御陵線の路盤(軌道敷)がそのまま転用されており、現代の京王高尾線の利用者も、知らず知らずのうちに幻の路線の名残をたどっていることになります。しかし、それ以外の多くの区間は、都市計画道路や高尾線建設用地の代替地などとして処分され、鉄道としての姿を消しました。計画から113年、そして廃止から62年が経過した今、京王御陵線は歴史の彼方に消え去ったように見えますが、その一部は新しい鉄道路線や道路として現代に息づき、当時の歴史を静かに伝えています。