歌舞伎の世界へ:中村京蔵の芸道と「門閥外」からの挑戦





歌舞伎の魅力に魅せられ、ひたむきに芸の道を歩む
幼少期の出会いと歌舞伎への憧れ
歌舞伎俳優の中村京蔵氏は、幼い頃から歌舞伎の世界に引き込まれていきました。両親が共働きだったため、歌舞伎好きの祖母に連れられ劇場に通う日々。まだ抱っこされるほどの年齢から、彼は舞台の持つ神秘的な力に魅了され、いつしか「歌舞伎俳優になりたい」という強い願いを抱くようになりました。特に5歳の時に観た『国姓爺合戦』は、ストーリーを理解せずとも、幼心に深い感動と影響を与えたといいます。幼稚園や小学校を休んでまで歌舞伎を追い求め、小学4年生になる頃には、自ら日本舞踊の稽古に通い始めるほど熱中していました。
一度は諦めた夢、そして六世中村歌右衛門との出会い
中学生になると、偶然の縁から六世中村歌右衛門の楽屋に出入りする機会を得ます。黒衣を身につけ、舞台裏で歌右衛門の手伝いをする中で、歌舞伎の厳しさと「家柄」の重要性を痛感しました。家柄のない自分がこの世界で生きていくことの難しさを悟り、「一観客」として歌舞伎を愛し続けることを決意。大学へ進学し、近世文学を専攻しながらも、心の中では歌舞伎への情熱がくすぶり続けていました。
運命の再会と、四世中村雀右衛門への師事
大学時代、歌舞伎座に通い続ける中で、中村京蔵氏は四世中村雀右衛門の舞台に心を奪われます。雀右衛門は、戦地から復員後、27歳から女方として修行を積み直し、人間国宝にまで登り詰めた人物でした。その色気と卓越した舞踊、そして様式美の中にリアリズムを追求する独自の演技に深く感動し、京蔵氏は再び歌舞伎俳優への道を志します。演劇評論家・武智鐵二氏の歌舞伎塾に入門し、武智氏の「やって後悔するよりは、やってダメなら諦めもつく」という言葉に背中を押され、国立劇場歌舞伎俳優養成所の門を叩くことを決意しました。
養成所での厳しい修行と「京蔵」の名
2年に一度の募集だったため、アルバイトをしながら1年待ち、1980年に国立劇場歌舞伎俳優養成所に入所。20人中10人の合格者の一員となり、厳しい訓練の日々が始まりました。1年10ヶ月の期間で、立役(男性役)と女方(女性役)双方の演技、日本舞踊、長唄、三味線、鼓、太鼓、義太夫、お琴、お茶、立ち回り、化粧など、歌舞伎に必要なあらゆる技能を習得しなければなりませんでした。半年後の実技適性試験を経て、最終的に修了したのは5人のみ。幼い頃から日舞の経験があった京蔵氏も「身につけたことを全て捨てなさい」と指導され、初心に立ち返ることを求められました。卒業後、迷うことなく四世中村雀右衛門の門下を志望。面接の際、師匠から「役者で一番大事なものは体力だ」と諭され、その言葉を胸に、体力づくりに励みました。そして、「芸の蔵が建つように」との願いを込めて「京蔵」の名を授けられたのです。女方としての体の見せ方、動き方、化粧の仕方まで、師匠から一つ一つ丁寧に指導を受け、柳腰の姿勢や撫で肩の表現、さらには内臓から動かす演技の真髄を学び、師匠の姿に似てくると言われるほど、自身の芸を磨き上げていきました。