江戸時代の低級武士の厳しかった雇用状況とその生活の実態

江戸時代、将軍直属の家臣である「幕臣」の数は膨れ上がり、多くの者が職を得られない厳しい状況に直面していました。たとえ仕事に就けたとしても、その勤務日数は極めて少なく、現代の労働者からは想像もつかないほど「暇」を持て余していました。本記事では、歴史学者の山本渉氏による解説を基に、当時の下級武士たちの切実な生活状況、幕府が導入した独特の役職、そしてその中で武士たちが抱いていた本音に迫ります。
江戸幕府、深刻な武士の雇用問題と苦肉の策
江戸時代、幕臣、特に将軍に謁見できない身分の「御家人」は、将軍家が繁栄するにつれてその数を増やしていきました。徳川家康が江戸に入府した際に抱えていた家臣団に加えて、御三家などから将軍の世継ぎが入城する際、その家臣たちも幕臣として編入されることがありました。たとえば、徳川綱吉が館林藩主から将軍となる際、2500名もの家臣が幕臣に加わりましたが、綱吉の世継ぎである徳松が幼くして亡くなった後も、彼らは幕臣の身分に留まりました。結果として、幕府の運営に必要な人員をはるかに超える数の幕臣が存在し、深刻な「就職難」が常態化していました。
この大量の「無役」の武士たちをどうにかするために、幕府は様々な手を打ちました。その一つが「寄合」や「小普請組」への編入です。「小普請」は本来、小規模な修繕工事を指し、そこに所属する武士は、かつては人足を提供する必要がありましたが、後には金銭を納める形に変わりました。しかし、役職手当のない御家人にとっては、この金銭負担は大きな痛手でした。
当時の社会は厳格な身分制度に支配されており、武士が就ける職務は家柄によって厳しく制限されていました。例えば、将軍の身の回りの世話をする「小納戸」のような重要な役職は、身分の低い武士が就くことはほとんどありませんでした。下級武士は自身の役割を忠実にこなし、それを子孫に引き継ぐことが使命とされており、現代のような「成り上がり」を目指す風潮は稀でした。
幕府は、一人でも多くの幕臣に職を与えるため、職務を細分化し「当番制」を導入しました。これにより、各人の仕事量は極めて軽量化されました。例えば、将軍外出時の警護を担当する「御徒」の山本政恒という武士は、幕末から明治にかけての日記に、月にわずか6日しか勤務しなかったと記しています。これは極端な例かもしれませんが、一般的には「三日勤め」と呼ばれる、2日勤務して1日休むという当直制度が広く採用されていました。研究者が京都の幕府役所で働く人々を調べた際も、「非番」の多さに驚くほどでした。
多くの暇を持て余した武士たちは、その時間を使って内職に励みました。傘作り、提灯作り、植木の栽培などが一般的で、中には大久保に住む同心、飯島武右衛門のように、ツツジの栽培に熱中しすぎて「江戸第一の壮観」と称される庭園を築き上げた者もいたと言います。当時の上役たちは、彼らのそうした「副業」に苦笑いをしながらも、黙認していたことでしょう。
このような江戸時代の低級武士たちの雇用事情と、それに伴う彼らの生活ぶりは、現代社会におけるワークライフバランスやキャリア形成について、私たちに深く考えさせるものがあります。彼らは限られた選択肢の中で、自らの生活を豊かにするための工夫を凝らし、時には予期せぬ才能を開花させていました。現代社会の競争が激しい中で、当時の武士たちの「暇」の活用術は、私たちに新たな視点を与えてくれるかもしれません。