親子の愛情神話の再考:反出生主義が提起する現実と感情の区別

小島和男氏の新著『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』から抜粋された内容は、親子の関係性における「無条件の愛」という通説に異議を唱えています。一般的に信じられている母性本能や父性愛といった概念が、現実とは異なる場合があることを指摘し、親もまた人間である以上、子どもに対して複雑な感情を抱く可能性があると論じています。子育ての困難さや、子どもの成長に伴う変化が、親の愛情に影響を与えることは珍しくなく、その感情を公にできない社会的なタブーが存在することを示唆しています。本稿は、親の感情と責任ある行動の区別、そして子どもが親の感情の多様性を理解することの意義について深く考察します。
これまで、多くの場合、子ども側からの視点で親の姿が描かれてきましたが、この議論では逆の側面、すなわち親が子どもに対してどのような感情を抱いているのかという点に焦点を当てています。「親は我が子を無条件に愛する」という考えは、社会において広く浸透している神話の一つです。しかし、母性本能や父性愛といった言葉が示すように、子どもをもうければ自然と愛情が湧き上がるとされるこの通念は、必ずしも現実と一致しません。実際には、親も好き嫌いの感情を持つ生身の人間であり、複数の子どもがいる場合には、それぞれの個性に合わせた感情が生まれることもあります。中には、率直に言って、子どもを心から愛せないと感じる親も存在するのが現実です。
この現象は決して特殊なケースではありません。子どもを持ったものの、想像していた子育てと現実のギャップに直面し、育児の負担の重さから自己の時間が失われたり、子どもが期待通りに成長しなかったりすることで、子どもに対して否定的な感情を抱く親は少なくありません。しかし、社会的な圧力や規範により、そうした感情を表に出すことは「タブー」とされています。
筆者が大学の講義でこの話題に触れた際、学生から興味深い反応がありました。ある学生が、講義後に自身の親に「私のこと、可愛いの?」と尋ねたところ、「ギリギリ可愛い」という返答があったそうです。学生は笑いながらそのエピソードを共有しましたが、この正直な答えは、親の複雑な感情をよく表していると言えるでしょう。乳幼児期は、確かに育児は大変であるものの、その無垢さから無条件に可愛いと感じることが多いものです。しかし、子どもが成長し、自我が芽生え、親に反抗したり、思春期には親を避けたり、価値観に反発したりするようになると、「可愛い」という感情が薄れることがあります。このような現実を踏まえると、「ギリギリ可愛い」という言葉は、非常に率直で、微笑ましい表現であると言えます。
実際のところ、親が子どもを「可愛いと思えない」という感情を持つことは、親個人の自由な感情であり、強制できるものではありません。しかし、重要なのは、たとえ可愛いと思えなくても、虐待や加害、ハラスメントといった行為が許されるわけではないということです。感情と行動は明確に区別されるべきであり、好き嫌いにかかわらず、親には子どもを適切に養育する義務があります。感情は自由であるものの、行動には常に責任が伴うことを認識すべきです。
子ども側もまた、このような現実を理解しておくことが重要です。親が必ずしも自分を無条件に愛しているとは限らないという事実を受け入れることで、「親だから愛してくれるはず」という期待が裏切られた際の精神的なダメージを軽減できます。初めから過度な期待を抱かなければ、不必要な傷つきを避けることができるのです。これは冷淡な見方かもしれませんが、自己防衛のためには有効な考え方と言えるでしょう。