郷ひろみのニューヨーク音楽留学:キャリアの転換点と自己成長の軌跡

自己を見つめ直し、新たな高みを目指す旅路
成功の裏に潜む自己認識の葛藤
郷ひろみは1972年に芸能界にデビューし、同年には歌手としても「男の子女の子」でデビュー。レコード大賞新人賞や日本歌謡大賞新人賞を受賞するなど、華々しいスタートを切りました。翌年には「よろしく哀愁」でオリコンチャート1位を獲得し、1976年には「あなたがいたから、僕がいた」で日本レコード大賞大衆賞を受賞するなど、次々とヒット曲を放ち、ドラマや映画でも活躍。周囲からは順風満帆なアイドルとして見られていました。しかし、彼自身は幸運を享受する一方で、「歌唱力もダンスも未熟である」という自己認識を抱えていました。デビュー前に本格的な歌やダンスの訓練を受けていなかったため、これは当然の感覚だったのです。このままでは将来性がないと感じた彼は、自己改革の必要性を強く意識し始めました。
歌手としての成長を求めた渡米
郷ひろみが本格的な歌とダンスのレッスンをアメリカで受けることを決意したのは、19歳の時に初めて訪れた西海岸での体験が大きかったと言います。そこで受けたダンスレッスンではビギナークラスにも関わらず他の生徒についていくのが精一杯で、ボーカルトレーニングでも大きな壁に直面しました。わずか1ヶ月の滞在でしたが、この経験が彼の「歌手・郷ひろみ」を成長させるためにはアメリカが必要だと直感させたのです。しかし、当時の日本の歌謡界は全盛期であり、年間4〜5枚のシングルリリース、ほぼ毎日放送される歌番組、雑誌取材、ドラマ撮影、コンサートなど、多忙なスケジュールに追われていました。アーティストが活動休止や充電期間を取るという概念が希薄だった時代において、彼の行動は異例中の異例でした。
「忘れられる不安」を超えた挑戦
20歳の時、1ヶ月間の休暇を得てアメリカへ向かう日、羽田空港には大勢の報道陣が押し寄せ、「1ヶ月も日本を離れたら忘れられてしまうのではないか」という不安を問われました。これに対し、郷ひろみは「1ヶ月で忘れ去られるような存在なら、それまでのこと」と毅然と答えました。活動を許してくれた事務所や、彼の復帰を待つファンへの感謝を胸に、滞在中は観光や遊びを一切せず、ダンスレッスンとボーカルトレーニングに文字通り死に物狂いで取り組みました。その後も、毎年約1ヶ月間、今度はニューヨークで音楽留学を続け、30代前半にはニューヨークに居を構えるまでになりました。こうした地道な努力が実を結び始めたと感じたのは35歳頃で、「やっと、少し歌えるようになったかもしれない」という感覚を得た後、バラード三部作の第一弾となる「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」に出会い、その後「言えないよ」(1994年)、「逢いたくてしかたない」(1995年)とヒットを続けました。