伊賀と名張、忍者の故郷を巡る歴史と銘菓「かたやき」の魅力

関西の豊かな歴史と文化を巡る「歴史街道」シリーズが、今回注目するのは三重県西部の内陸地域、伊賀と名張です。この地は、古くから人々の生活の中心であり、盆地の北側は上野城の城下町、南側は名張陣屋のもとで宿場町として発展してきました。現在、これらはそれぞれ伊賀市と名張市の中心市街地を形成しています。特に伊賀地方は、忍者の起源として広く知られており、その忍者文化と深く結びついた銘菓「かたやき」が存在します。小麦粉と砂糖を練り合わせ、鉄板で焼き上げたこの硬い煎餅は、忍者が携帯食として利用したことが始まりとされています。本稿では、名張に深く関わる忍者の歴史を追いながら、この地で代々続く老舗が「かたやき」に込める、地域の伝統と情熱に触れていきます。
名張の地は、古文書や和歌集において「隠」と記されることがあり、山々に囲まれた地形がその名の由来とされています。しかし、この地には三重県で二番目に大きい馬塚古墳を含む美旗古墳群が残されており、古代から人々が定住していたことを示唆しています。さらに、飛鳥や奈良の都から東国へと続く重要な街道沿いに位置し、古代の駅が設置されていた歴史や、奈良時代に建てられた夏見廃寺の遺構からもその歴史的重みが伺えます。平安時代後期には、名張に東大寺の荘園である黒田荘が形成され、市南部にある極楽寺は、東大寺二月堂の修二会で使われる松明を調進することで知られており、荘園時代からの深い繋がりを今に伝えています。しかし、鎌倉時代に入ると、この地の荘官や地侍が領主としての力を強め、寺領の年貢を横領する「黒田悪党」が出現します。この「悪党」の台頭は、地域に根差した「国人」たちの自立の象徴でもありました。南北朝時代には、黒田悪党は南朝に加担し、有名な楠木正成とも連携を深めます。その後も室町時代を通じて国人たちは勢力を拡大し、伊賀一国を支配するまでに成長しました。そして戦国時代、外部からの侵略に対抗するため、彼らは「惣国一揆」と呼ばれる同盟を結び、一致団結して防衛することを掟書に定めました。戦乱の世を生き抜くため、彼らは情報収集に努め、地侍ならではの独自の戦術を発展させ、これが後の「忍者」へと繋がっていくのです。
名張の歴史は、古代からの人々の営みと、中世における地域権力の確立、そして戦国時代の動乱期に独自の文化として花開いた忍者の存在に彩られています。この地で生まれた「かたやき」は、単なる菓子ではなく、忍者の知恵と歴史が凝縮された逸品です。地域の豊かな歴史と文化に触れることは、私たち自身のルーツを再認識し、未来へと繋がる新たな価値を発見する機会を与えてくれます。