小栗忠順の財政改革と幕末の動乱:莫大な出費が招いた幕府の窮状

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』で描かれる主人公、小栗忠順(おぐりただまさ/上野介)は、アメリカへの使節団として渡航後、幕府の要職を歴任しました。当時の幕府は、軍事費の拡大や生麦事件などの賠償金によって深刻な財政難に陥っていました。忠順は勘定奉行として、この危機的状況を打開すべく、大胆な財政改革を推進しましたが、その施策は農民から幕府内部の人間まで、多くの人々の反感を買うことになります。本稿では、彼の断行した改革の背景、そしてその不屈の生涯に深く迫ります。
小栗忠順が幕府の外交使節としてアメリカから帰国後、彼は外国奉行を皮切りに、勘定奉行、町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並、軍艦奉行など、数々の奉行職を務めました。特に注目すべきは、幕府の財政を管掌する勝手方勘定奉行を四度にわたって務めたことです。当時、国内の騒乱と外国からの圧力が強まる中で、幕府は莫大な出費を強いられ、財政破綻は避けられない状況にありました。
この財政難の主要因は、軍事費の増大にありました。陸海軍の創設や軍艦の購入といった軍備増強にかかる費用はもちろんのこと、特に長州征伐に要した軍費は膨大な額に上りました。第二次長州征伐だけでも、その軍費は437万両以上と記録されています(大山敷太郎『幕末の財政紊乱』有斐閣より)。また、攘夷運動の激化に伴い発生した外国人殺傷事件に対する賠償金も、幕府財政を圧迫しました。例えば、生麦事件ではイギリスに対し10万ポンドの賠償金が支払われましたが、この事件を起こした薩摩藩への賠償金2万5千ポンドなどの要求は決裂し、1863年7月には鹿児島で薩英戦争が勃発しました。その後、薩摩藩はイギリスの要求を受け入れますが、賠償金は幕府が一時的に肩代わりし、結局返還されることはありませんでした。
同年5月に長州藩が下関で外国船を砲撃したことで、翌1864年8月にはイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四カ国連合艦隊による下関戦争が勃発しました。この戦いは四カ国側の圧倒的勝利に終わり、敗れた長州藩は300万ドルの賠償金支払いを約束させられます。しかし、実際にこの賠償金を支払ったのも幕府でした。長州藩は、砲撃が幕府が朝廷に約束した攘夷実行の期日を守ったに過ぎないとして、その責任を幕府に転嫁したためです。さらに、将軍家茂の三度にわたる上洛にかかった費用も、幕府財政に重くのしかかりました。忠順が初めて勘定奉行に就任した際、彼は将軍の上洛には約150万両もの出費が見込まれるとして、政事総裁職の松平春嶽にその延期を提言しています。
江戸城の度重なる火災も、財政状況を悪化させました。安政6年(1859年)10月には本丸御殿、文久3年(1863年)6月には西の丸御殿が焼失し、同年11月には再建されたばかりの本丸御殿が再び焼失するという悲劇に見舞われました。元治元年(1864年)7月には西の丸御殿が再建されたものの、本丸御殿は再建されないまま、慶応4年(1868年)4月の江戸開城を迎えました。もはや巨額の再建費用を捻出することは不可能だったのです。
小栗忠順が直面した幕末の財政危機は、外国との関係悪化、国内の政治的対立、そして自然災害など、複数の要因が絡み合って生じた複雑なものでした。彼の改革は、こうした困難な状況下で幕府を立て直そうとする必死の試みであり、その手腕は現代にも通じる財政再建の教訓を与えてくれます。