この記事では、長年にわたりクマの生息地を歩き続けてきた経験豊富なアウトドアライター、高橋庄太郎氏が実践する独自のクマ対策について深掘りします。彼の400回を超えるヒグマとの遭遇経験から導き出された、クマ鈴に頼らない、より実践的なアプローチとその理由を詳細に解説します。自然との共存を模索する、高橋庄太郎流クマ対策の真髄
世界自然遺産で頻繁に目撃されるヒグマの現状
近年、特に世界自然遺産に登録されている地域では、依然としてクマの目撃情報が多数寄せられています。登山中にクマと遭遇した場合、どのような対策が最も効果的なのでしょうか。この疑問に対する答えを探るため、北海道の知床半島に注目します。ここは日本最北東部に位置し、70kmにも及ぶ手つかずの自然海岸が広がる国内最大の無人地帯であり、ヒグマの生息密度が世界でも有数の高さを誇ります。
知床半島におけるヒグマとの遭遇実態
2026年の6月末から7月にかけて、著者は北海道での活動中に知床の海岸を単独で3泊4日歩き、さらにシーカヤックツアーでも人里離れた海岸で4泊を過ごしました。歩行中には1頭のヒグマと遭遇しましたが、シーカヤックでは6~7頭ものヒグマを目撃しました。これには遠距離からの観察だけでなく、キャンプ地で至近距離に現れた個体も含まれます。
知床半島先端部のヒグマに関する一般的な誤解として、その個体数が継続的に増加しているという認識があります。しかし、推定400~500頭とされていた生息数は、2023年に約200頭減少しました。生まれた子グマによって再び増える可能性はあるものの、近年他地域で報告されているような爆発的な増加は見られません。むしろ、臆病な個体が生き残ったことで、目撃数は以前よりも減少している傾向にあります。
知床のフィールド活動後、地元のビジターセンターで報告する際、必ず話題になるのは「何頭のヒグマを見たか」という点です。「見たか見ないか」ではなく、「何頭見たか」が重要なのです。個体数が多少減少したとしても、知床ではヒグマとの遭遇は依然として日常茶飯事となっています。
無人地帯での100泊以上の経験と400回を超えるヒグマとの出会い
私が初めて知床を訪れたのは1992年で、当時は情報も乏しい中、なんとか知床岬までたどり着きました。2005年の世界自然遺産登録以降は毎年1回以上足を運び、無人の山中や海岸でのテント泊は、これまでに140~150泊に達しています。
その結果、私がこれまでに目撃したヒグマは累計で400~500頭に上ります。そのほとんどはシーカヤック中に海上から見たものであり、海岸線や山中を歩行中に遭遇したのはせいぜい100頭程度です。特に至近距離(約30m以内)での遭遇は、およそ30頭といったところでしょう。
知床以外にも、大雪山系や日高山脈でも数回ヒグマに遭遇しています。しかし、ツキノワグマに関しては、これまでわずか15頭ほどしか目撃していません。高校の山岳部で登山を始めてから40年近くが経過し、現在は仕事柄、年間のおよそ半分をフィールドで過ごしていますが、その大半が本州での活動であることを考えると、ツキノワグマとの遭遇がこれほど少ないのは、私自身も少し不思議に感じています。
さて、今回ご紹介するのは、私が実践しているクマ対策の具体的な内容です。これまでの遭遇体験は圧倒的にヒグマが主ですが、ツキノワグマに対しても対策は変わりません。
ここで紹介する対策は、あくまで私個人の経験に基づいたものです。もちろん、これまで取材してきたクマの研究者や、現場経験が豊富な山岳ガイドの意見も参考にしていますが、基本的には私自身の体験から得た知見です。
私の方法が「絶対的な正解」だと確信しているわけではありません。自分なりに効果的な方法だとは思っていますが、改善の余地はまだまだあるでしょう。人によっては私のやり方では効果がないと考えるかもしれません。
なお、ここでは「クマの生息地に人間が立ち入ることの是非」や「人間とクマの共存」といった議論には触れません。あくまで、私が現在行っている「対策」を参考情報としてご紹介するのみです。
最優先はクマスプレー:配置場所が重要
まず、最も重要なのは「クマに遭遇しない」ことです。この目的のために、クマが生息していそうな場所では、頻繁に「音」を出し、クマに自身の存在を早めに知らせるようにしています。そうすることで、多くの場合、クマは私たちの通過を待って、自ら茂みの中に隠れてくれます。
クマがいる可能性のある場所では、クマが身を隠す時間を確保できるよう、歩行速度を落とすことも心がけています。また、足元ばかり見ずに、できるだけ頻繁に前方に注意を払い、もしクマがいたら、近づく前に立ち止まれるようにしています。それでもクマとの遭遇は避けられない場合があるため、その際には「遭遇してしまった場合の対処法」を考える必要があります。
その際、私が最も信頼しているのは「クマスプレー」です。これはトウガラシ由来のカプサイシンを含む強力なもので、EPA(アメリカ合衆国環境保護庁)によって効果が認証されているものが目安となります。しかし、日本ではその認証基準が曖昧なため、「クマに効果がある」と謳いつつも、実際には人間には効いてもクマには効果が薄い製品も流通しているので注意が必要です。
利き腕に合わせたクマスプレーの携帯位置
移動中、私はクマスプレーを左胸の位置に固定しています。具体的には、バックパックのショルダーハーネスにホルダーを介して取り付けています。私が右手利きであるため、瞬時に手を伸ばしやすい対角線上の左胸が最適な位置となるのです。
今年も至近距離でヒグマと遭遇した際、私は素早くクマスプレーを取り出し、噴射レバーのストッパーを抜いて準備を整えることができました。左利きの方であれば、右胸への装着が適切でしょう。
腰に装着する方が邪魔にならないという意見もありますが、私の場合は腰に付けるとスプレーの取り出しが一段遅れてしまいます。また、トレッキングポールを使用していると、スプレーが手に当たってしまうこともあります。さらに前方へ移動させると、今度は足を上げた際に邪魔になるため、結局、胸元が最適な「定位置」となっています。
しかし、左胸の位置は顔に近いため、誤噴射の危険性も伴います。藪を漕ぐ際など、時折ストッパーが外れていることがあり、何度もひやりとさせられています。この点については、何らかの改善策を講じたいと考えています。
「クマ鈴」や「ラジオ」を使わない理由:周囲の「異音」を聞き取る重要性
クマスプレーが絶対不可欠なアイテムである一方で、私が絶対に使わないようにしているのが「クマ鈴」です。クマ鈴の代わりに「ラジオ」を流しながら歩く登山者もいますが、私もラジオは使用しません。
一昨年の夏、羅臼岳からの下山中、登山口からバス停までの車道を歩いていた時のことです。緩やかなカーブを曲がった瞬間、私のすぐ後ろで「ガリッ」という音が聞こえました。その時、私は直感的に「ヒグマだ!」と理解しました。以前、車道でヒグマに遭遇した際も同様に「ガリッ」という音を聞いていたからです。この「ガリッ」という音は、ヒグマの爪がアスファルトを引っ掻く音なのです。
もしこの時、クマ鈴を鳴らしながら歩いていたら、この「ガリッ」という音を聞き逃していたことでしょう。常に鳴り続けるクマ鈴は、人間の聴覚を鈍らせ、周囲の音を聞き取りにくくしてしまいます。登山道でクマ鈴を鳴らしている人に、後ろから近づいても全く気づかない人が本当に多いのは、まさにクマ鈴の音によって周囲の気配を感じ取れていないためです。これでは、クマ対策をしているつもりが、かえって逆効果になりかねません。
数年前、知床の海岸ではイタドリの茂みから聞こえるヒグマの唸り声で、その存在に気づきました。日高山脈のペテガリ岳では、巨大な動物が深い笹の中を通る音にハッとさせられました。姿は見えませんでしたが、エゾシカであれば笹の中から頭が飛び出していたはずなので、ヒグマだったに違いありません。
どちらの場合も、もしクマ鈴を鳴らしていたら、おそらく気づかなかったはずです。特に唸り声の場合、ヒグマが「近づくな」と警告しているにもかかわらず、人間側がそれに気づかずに近づいて襲われてしまったとしたら、その責任は人間にあると言わざるを得ません。
そのような経験から、常に音が鳴り続ける道具は危険であると私は考えています。それよりも、山中の雰囲気を肌で感じ、周囲の音を聞きながら歩くことを重視しています。数人のグループで歩いている際は会話が途切れないこともありますが、それでもできるだけ異音を察知できるよう注意を払っています。これが、現在の私の対処法です。
もちろん、クマ鈴にも一定の効果はあるでしょう。しかし、「周囲の音が聞こえなくなる」というデメリットは、私にとってあまりにも大きいのです。そのため、長い間クマ鈴は使用していません。
ちなみに、もしあえてクマ鈴を使用するのであれば、鈴がたくさんついて「シャンシャン」と鈍い音がするタイプよりも、カウベルのように「キーン」と甲高い音が鳴るタイプの方が良いとされています。そうでなければ、クマには聞こえにくく、効果が低いようです。
「ホイッスル」と「声出し」の重要性
北海道のガイドの方々を見ていると、クマ対策で最もよく見られるのは、自身の存在をクマに知らせるために「大きな声を出す」ことです。「ホーイ!」といった遠くまで響く掛け声で、私も見通しの悪い怪しい場所では積極的に「ホーイ!」と叫んでいます。
ただし、試してみればわかりますが、歩きながら「ホーイ!」と声を出すには長い息を吐き出す必要があり、かなり疲れます。そこで、代わりに「ウォッ! ウォッ!」という声を出すことが多いです。これなら瞬時に息を吐き出すだけで済み、それほど疲れることなく、かなり大きな声を出せます。
どちらの掛け声がヒグマにより効果的に聞こえるかは、ヒグマに直接聞かないとわかりませんが。
先に「大きな声を出す」ことについて述べましたが、私がそれ以上に頻繁に活用しているのは「ホイッスル」です。声よりも簡単かつ大きな音を出すことができ、遠くまで届きます。ホイッスルは自然界の鳥やシカの鳴き声に似ているため、ヒグマの警戒心を刺激しにくいという意見もありますが、その効果はホイッスルの種類や吹き方次第でしょう。
実際、知床の海岸でヒグマが視認できる距離にいた際、私がホイッスルを鋭く鳴らすと、ヒグマは明らかに嫌そうな顔をしてこちらを一瞥しました。鳴らしても完全に無視されることも多いですが、聞こえた上で無視しているのなら、大きな問題はないはずです。
最も危険なのは、クマがこちらの存在に気づかず、不用意に距離が縮まってしまい、彼らを驚かせてしまう場合だからです。
ただし、ホイッスルも常に吹き続けているわけではなく、掛け声と同様に、要所要所で鳴らすに留めています。常に吹きっぱなしでは、クマ鈴を鳴らし続けている時と同じように、周囲の音を聞き取れなくなってしまいます。
立ち止まってホイッスルを鳴らす意味
以前、クマの研究者から聞いた話で勧められたのは、本当に注意が必要な場所では、歩きながらホイッスルを鳴らすのではなく、「立ち止まって静かな状態で鳴らす」という方法です。
その理由として、近くでホイッスルが鳴った際、それまでこちらの存在に気づいていなかったクマは、一旦動きを止めて周囲を確認し、その後再び動き出すことが多いからだと言います。別の言い方をすれば、ホイッスルを鳴らしてから数秒後にクマが動き出し、その際に発生する「ガサッ」という音によって、人間もクマの存在に気づくことができるということです。
つまり、歩き続けながらホイッスルを鳴らしていると、その「ガサッ」という音に気づかない可能性が出てくるのです。
私自身はまだ「数秒後にガサッ」という経験はありませんが、なるほどと納得できる話です。ただ、私はどうしても歩きながらホイッスルを吹いてしまいがちで、立ち止まって吹くことを忘れてしまうのは、反省すべき点だと感じています。
このように、私が行動中に頼りにしているのは「クマスプレー」と「ホイッスル」、そして「掛け声」です。逆に、使わないようにしているのが「クマ鈴」や「ラジオ」となります。
緊急時の鉈(ナタ)携帯の是非
クマに襲われた際に手元で戦う道具としては、至近距離で力を入れて使いやすい「鉈(ナタ)」が有効であるという話をよく聞きます。そのため、私も実際に携帯してみた時期もありましたが、正直なところ、取り扱いが非常に難しいと感じました。
迂闊に扱うと自分自身を傷つける恐れもある刃物だけに、体のどこに保持すれば安全かつ迅速に取り出せるのか、最適な場所を見つけるのが困難でした。
やはり最終的には腰元になるのでしょうが、クマスプレーと同様に歩行中は邪魔になります。しかも、かなりの重さがあります。
しかし、過去にはナイフでクマと戦い、撃退した事例もあることから、確かに刃物は有効な手段であるはずです。今のところ、クマの襲撃を未然に防ぐ効果的なアイテムとしてはクマスプレーに頼り切っていますが、今後は直接的な攻撃を受けた際の「防御」のために、改めて鉈の携帯を検討する必要があるかもしれません。
キャンプ中のクマ対策:今後の課題と展望
クマ対策は本当に複雑で奥が深いものです。人間ですら地域によって特性が異なるように、クマも生息する山域によって性格が異なり、対処法も微調整が必要となるでしょう。
私が実践しているクマ対策の「一例」は、主に知床での経験に基づいたものですが、本州を含む他の山域でも有効であるはずです。しかし、実際の状況に合わせて調整すべき点もあるに違いありません。例えば、「クマが反応しやすい掛け声」などは山域によって異なる可能性もあります。そして、ここで紹介した私自身の方法も、新たな知識や経験によって今後も進化していくことでしょう。確実な「正解」というものは存在しないのかもしれませんが、常に最も効果的な方法に近づけるよう努力していきたいと考えています。
また、ここでは触れませんでしたが、クマ対策は歩行中だけでなく、キャンプ中も極めて重要です。食料の適切な保管方法や就寝中の注意点など、考慮すべき事項は多岐にわたります。宿泊時における私の具体的な対策については、別の機会に詳しくご紹介したいと思います。