れきしぶんか

「佐藤」の焼酎、霧島の恵みが育む至高の味わい

九州を巡る豪華列車「36ぷらす3」の中でもその風味を堪能できる、銘酒『佐藤 黒』。1906年(明治39年)に創業した佐藤酒造が誇る『佐藤』ブランドの一つとして、多くの焼酎愛好家を魅了し続けています。黒麹仕込みの「黒」、白麹仕込みの「白」、そして麦焼酎という幅広いラインナップが特徴です。豊かな自然に抱かれた霧島市に位置する佐藤酒造では、霧島連山の岩盤をゆっくりと自然ろ過された、極めて柔らかな地下水を全ての製造工程に惜しみなく使用しています。

「佐藤」:伝統と革新が織りなす、焼酎への情熱

佐藤酒造の歴史と信念:五代目が守り抜く品質

佐藤酒造を率いるのは、34歳の若き五代目当主、佐藤寿峻氏です。先代である四代目から託された「この地で焼酎を造り続け、次の世代へと継承する」という言葉を胸に、彼は常に飲み手のことを想い、真摯な姿勢で焼酎造りに向き合い続けています。

厳選された原料と手間暇かけた仕込み:焼酎の味を決定づける礎

『佐藤』の原料となるさつま芋は、顔の見える契約農家が丹精込めて育てた黄金千貫(コガネセンガン)です。8月に収穫が始まると、蔵人たちが総出で毎日芋の選別作業を行います。芋の状態を細かく確認しながら、ヘタを取り除き、傷んだ部分や入り込んだ土などを丁寧に取り除き、適切な大きさにカットします。この徹底した工程により、最高の芋だけが原料として使用され、目指す焼酎への第一歩が踏み出されます。

「不可逆」な酒造りへのこだわり:全工程に注がれる最善

佐藤氏は、酒造りは「不可逆」であると語ります。一つ一つの工程で手を抜けば、目指す酒は決して完成しない、一度進んだら元には戻れないという強い信念を持っています。そのため、全ての工程において最善を尽くすことを徹底しています。焼酎の味わいの骨格となる米麹造りでは、芳醇な風味とコクを生み出す黒麹、そしてすっきりとした味わいを引き出す白麹を明確に使い分けます。一次仕込みでは、酵母はシンプルに余計な香りをつけず、醪(もろみ)の状態を細やかに管理します。芋を加える二次仕込みでは、麹と芋の割合を1対5という黄金比にすることで、麹由来の甘い香りと蒸したての芋の香りが絶妙なバランスを生み出します。完成した醪は蒸留され、原酒はタンクの中で2年半から3年もの間、攪拌と静置を繰り返しながら熟成されます。

お湯割りで際立つ真価:まろやかな口当たりと豊かな香り

佐藤氏が最も重視するのは、「焼酎がお湯や水で割られた時に、いかに美味しい酒質を構築できるか」という点です。彼が淹れるお湯割りは、柔らかな芋の香りが立ち上り、驚くほどまろやかな口当たりが特徴です。まさに「王道の芋焼酎」と呼ぶにふさわしい逸品です。

「佐藤」の焼酎を味わえる場所:特約店「コセド酒店」

「36ぷらす3」の運行ルート上に位置する鹿児島中央駅の近くには、『佐藤』の特約店である「コセド酒店」があります。焼酎造りに情熱を注ぐ蔵人たちの魂が込められた一本を、ぜひこの場所で心ゆくまで堪能してください。

コセド酒店中央駅店:地酒の宝庫

コセド酒店は、鹿児島の焼酎、日本酒、ジンなど、地元の銘酒を取り揃える専門店です。中央駅店では、50を超える蔵元の酒が並び、角打ちコーナーではおすすめの地酒を気軽に楽しむことができます。所在地は鹿児島市中央町23-21アエールタワー1階、営業時間は10時から19時(角打ちは14時から、最終注文は18時15分)です。定休日は第2・第4月曜で、鹿児島中央駅から徒歩約5分とアクセスも良好です。

佐藤酒造への訪問:霧島の自然と焼酎造りの現場を体験

佐藤酒造は鹿児島県霧島市牧園町宿窪田2063に位置し、電話番号は0995-76-0018です。見学も可能ですが、事前予約が必要となります。自然豊かな霧島で、伝統と情熱が息づく焼酎造りの現場をぜひ体験してみてください。

本記事は、『サライ』2026年8月号の取材・文:関屋淳子氏、撮影:藤田修平氏による記事を再構成したものです。

三代目三遊亭金馬の卓越した話芸と革新:ラジオ・レコード時代の落語進化

昭和時代を代表する落語家、三代目三遊亭金馬は、その独特な話術と情熱で、多くの人々に笑いと感動を届けました。彼は、落語という伝統芸能をラジオやレコードといった新たなメディアに乗せ、全国規模でその魅力を広めることに成功しました。特に、話の分かりやすさと登場人物の鮮やかな演じ分けは、子供から大人まで幅広い層に受け入れられ、落語の普及に大きく貢献しました。

金馬の芸は、ただ分かりやすいだけでなく、聴衆を惹きつけるための深い工夫と、落語に対する並々ならぬ気概に満ちていました。彼は、限られた時間の中で最大限の面白さを引き出すための構成力や、状況に応じて話の長さを自在に調整する技術を磨き上げました。これらの努力が、ラジオの生放送や当時のSPレコードといった制約の多いメディア環境において、彼の落語を絶大な人気へと導いたのです。

落語革新者、三遊亭金馬の魅力

三代目三遊亭金馬は、昭和初期から中期にかけて、ラジオやレコードを通して日本中の家庭に落語の楽しさを届け、大衆文化としての落語の地位を確立しました。彼の芸風は、明瞭な「東京語」を基盤とし、登場人物の年齢や性格に応じて声色を巧みに変化させることで、物語の世界観を聴衆の心に鮮やかに描き出しました。子供の声は子供らしく、武士の声は威厳をもって演じるなど、細部にわたる人物描写は、彼の落語が「誰にでも分かりやすい」と評される所以でした。

金馬自身は、自身の落語が決して軽々しいものではないと語っています。彼は、高座に上がるたびに「若輩者の落とし噺を一席申し上げます」と謙遜しながらも、実際には「食うか食われるか」という真剣な心持ちで芸に臨んでいました。この言葉からは、聴衆を楽しませることに全身全霊を傾ける、落語家としての強い誇りとプロ意識が感じられます。彼の真摯な姿勢と卓越した技術が、多くの人々を落語の世界へと誘い、長きにわたり愛される要因となりました。

メディアと話芸の融合:金馬の戦略

三代目三遊亭金馬は、明治27年(1894年)に東京本所で生を受け、幼少期から落語に触れる機会に恵まれました。講談師への道を志しながらも、その生まれ持った滑稽さから落語へと転向。初代三遊亭圓歌に弟子入りし、厳しい修行を積む中で、彼の個性的な話芸は磨かれていきました。特に、師匠の橋本川柳との旅興行は、金馬の芸に深みと骨太さを与える貴重な経験となりました。

金馬の革新性は、ラジオやレコードという新しいメディアを積極的に活用した点にあります。彼は、SPレコードの片面約3分という収録時間の制約の中で、古典落語『万病円』からヒントを得て、『ずっこけ』の一部を独立させ、新たな創作を加えて6分間の傑作『居酒屋』を生み出しました。この作品は大ヒットを記録し、金馬を全国的な人気者へと押し上げました。彼はレコードの冒頭20秒に特に心を砕き、聴衆を一瞬で引き込む工夫を凝らしました。

さらに、当時のラジオ放送が生放送であったため、時間厳守が求められる中で、金馬はストップウォッチを使って噺のラップタイムを計測するなど、徹底した準備を行いました。これにより、彼は持ち時間を自在に伸縮させることができ、共演者が時間を超過しても、自身の噺を短く調整して対応するなど、その柔軟な対応力は放送関係者からも高く評価されました。金馬は、話芸の質だけでなく、メディアの特性を理解し、それに合わせて自らの表現を最適化する能力においても、稀有な才能を発揮したのです。

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豊臣姓の起源と歴史的意義:秀吉の戦略と朝廷支援

豊臣秀吉が自ら創出した「豊臣姓」は、彼の権力基盤強化と朝廷との関係構築において重要な役割を果たしました。当初、近衛前久の猶子となり「藤原秀吉」として関白に就任した秀吉でしたが、この藤原姓は、将来的に近衛家の子息に職を譲る前提がありました。しかし、秀吉は自身の姓を創設することで、関白職の羽柴家による世襲化を目指し、その基盤を固めようとしました。この背景には、当時の主要な氏族である源、平、藤原、橘といった「源平藤橘」との関係性や、朝廷の財政状況が深く関わっています。

戦乱が続いた戦国時代、朝廷は極度の財政難に陥り、歴代天皇が即位すら困難な状況でした。神宮の式年遷宮が一時中断されるほどの窮状に、織田信長が手を差し伸べ、その後、秀吉が多額の寄進を行うことで、朝廷の財政は劇的に改善されました。秀吉による支援は、中断されていた式年遷宮の再開を可能にし、朝廷の権威回復に大きく貢献しました。後陽成天皇から「豊臣姓」を下賜されたことは、単なる姓の授与以上の意味を持ち、秀吉と朝廷間の強固な結びつきと、秀吉が日本の統治者としての正統性を確立する上で不可欠な要素でした。

この「豊臣姓」の創設は、秀吉が単なる武力による天下統一に留まらず、朝廷の権威を巧みに利用し、日本全体の秩序を再構築しようとした政治手腕の象徴と言えるでしょう。彼の行動は、混迷を極めた時代において、社会の安定と文化の再興を目指す強い意志が込められていました。歴史における様々な出来事や人物の選択は、現代を生きる私たちに、未来を切り開くための知恵と勇気を与えてくれます。

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