川上弘美の新作『スナックふたり』:癒しと詩情が織りなす現代の「夢幻能」

『スナックふたり』:人生の機微を映し出す、心温まる文学の世界
川上弘美文学の二面性:寓話性と日常の癒し
川上弘美氏の文学世界には、二つの異なる側面が存在します。一つは、国際ブッカー賞の最終選考に残った『大きな鳥にさらわれないように』に代表される、象徴的でテーマ性の深い作品群です。そしてもう一つは、今世紀初頭に読者を魅了し、現在では海外でも広く読まれている『センセイの鞄』のように、読者が心ゆくまで浸れるような居心地の良い世界を描いた作品群です。新刊の『スナックふたり』は、まさに後者の系統に属する作品であり、厚みのある本を手に取った時の期待感は計り知れません。
『スナックふたり』の舞台設定と登場人物の魅力
物語の舞台は、年配の女性二人によって営まれる「スナックふたり」です。スナックには、都会の繁華街にある華やかな店と、駅前の小さな商店街にひっそりと佇むような、ママの人柄が魅力となる店と、二つのタイプがあります。本作の「スナックふたり」は、もちろん後者のタイプです。店の所在地や、ママである司と逸子の具体的な年齢、容姿は最後まで明かされません。二人の過去や、なぜ共に店を始めたのかも、独身であること以外はほとんど語られないのです。この情報の欠落には、作者の深い意図が込められていると言えるでしょう。
物語の構成と会話が織りなす詩情
この小説は全6話で構成されており、司と逸子が切り盛りするこの町のスナックには、疲れた常連客が次々と訪れ、その度に新しい客が登場し、ささやかな物語が展開されます。これは、世に言う短編連作、あるいはグランド・ホテル形式の物語構造を基本としています。その最大の魅力は、高齢の女性二人、司と逸子が生み出す巧みな会話にあります。季節の移ろいや年齢を重ねたからこその人生の教訓が、優しく語られていくのですが、特に際立つのは、二人が常連客やゲストを独特の言葉で評価する場面です。開店前に、前夜の客やその振る舞いについて交わされる会話は、まさにこの作家の真骨頂と言えるでしょう。相手を完全に打ちのめすような残酷さはなく、少々辛辣ながらも、年齢からくる優しさや奥深い人間観察が、まるで隠し味のように効いています。そう、これは作者自身がどこかで語っていたように、高齢女性の“バディもの”でもあり、二人の信頼関係が醸し出す詩情が、作品の大きな魅力となっています。
“この世ならぬ存在”が訪れるスナック
さらに、この小説にはもう一つ重要な特徴があります。それは、各話に登場するゲストが常に“この世ならぬ存在”、つまり幽霊であるということです。例えば、常連客の叔父で、歌手を目指しながら若くして亡くなった人であったり、時折顔を出す焼き鳥屋の主人の亡き母であったりします。彼らは皆、何かしらの未練を残したまま世を去らざるを得なかった人々の霊なのです。これは、世に言う「夢幻能」の構造をも備えています。亡者が旅の僧に生前の思いを語り、そして舞う、能の世界に通じるものがあります。もちろん、壇ノ浦に身を投じる平家の公達のような劇的な話ではありません。誰にでもあるような人生の後悔であったり、この世に残していく者への思いであったり、あるいは消え去ることができない幽霊の迷いであったり、この作家ならではの、物語にならないようなささやかな話が綴られます。「スナックふたり」では、霊たちが胸の内を語り、やがて浄化されたかのように消えていきます。ここは、幽霊たちがあの世へと帰っていく出口、いわばターミナルにもなっているのです。
『スナックふたり』が象徴する理想の世界
ここまで来て、私は最初に抱いた疑問の答えにたどり着きました。司と逸子の過去がほとんど語られず、年齢や容貌が描写されないのは、「スナックふたり」そのものが“この世ならぬ場所”だからです。二人の高齢女性が老後を過ごす夢のような世界として構築されており、二人の個人的な属性は意図的に省かれているのです。ここは、常連客にとっての理想の場所であるだけでなく、晩年を迎えた一人暮らしの女性たちにとっても理想の世界と言えるでしょう。現在、スナックの良さが見直されているというか、昭和レトロブームに乗って、若いビジネスマンにもその魅力が理解されるようになったと感じます。そうであるならば、この作品は『センセイの鞄』のような道を辿り、長く読み継がれる作品になるような予感も抱かせます。私自身、本書を読んでいる時間は、まるで「スナックふたり」のカウンターに腰掛け、ママたちの何気ない話、しかしどこか懐かしさを感じる言葉の響きに耳を傾けているような時間でした。何とも言えない居心地の良さ。しかし、スナックはたいてい2時間程度がちょうど良い頃合いです。それ以上長居すると、酔って余計なことをしゃべってしまったり、翌日に響いたりしますし、お金もかかります。ママ、そろそろお勘定をお願いします──。
著者プロフィール
羽鳥 好之は1959年生まれ、早稲田大学仏文科卒業。1984年に文藝春秋に入社し、「オール讀物」編集長、文藝局長などを歴任し、主に文芸編集に携わりました。退社後の2022年、『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』で作家デビューし、同書で日本歴史時代作家協会賞を受賞。2023年からは金沢学院大学特任教授として小説創作指導にもあたっています。その他の著書に『遊びをせんとや 古田織部断簡記』があります。