飛鳥・藤原の宮都、世界遺産へ:古都の歴史と変遷を辿る

2023年7月26日、日本の古代国家形成における重要な舞台であった奈良県明日香村一帯の史跡群が「飛鳥・藤原の宮都」として世界文化遺産に認定されました。この世界遺産は、古墳や遺跡を含む19の資産から成り立ち、国や県の指定史跡、日本遺産認定の資産も点在しており、見どころが豊富です。本連載では、この「飛鳥・藤原の宮都」を構成する全ての資産といくつかの旧跡を写真とともに詳しく解説し、日本の歴史が息づくこの地の魅力に迫ります。
「世界遺産『飛鳥・藤原』協議会」の公式サイトによれば、「飛鳥・藤原の宮都」は宮殿・官衙(役所)跡、仏教寺院跡、墳墓の3つの主要なカテゴリに分けられています。この記事では、この分類に沿いつつ、時には時間軸を前後させながら各史跡を取り上げます。まずは、日本の政治の中心として約一世紀にわたり機能した飛鳥宮跡から見ていきましょう。
かつて、大王と豪族が共同統治する体制下では、王宮は特定の場所に固定されず、ほぼ天皇の代替わりごとに近畿地方内で移転するのが通例でした。この慣習が変わったのは、推古天皇の即位から始まる飛鳥時代です。この時代から、宮都は主に飛鳥の地に置かれるようになりました。崇峻天皇5年(592年)に推古天皇が即位した当初、政庁は豊浦宮(現在の明日香村豊浦付近)にありました。その後、推古11年(603年)には、さほど遠くない小墾田宮へと遷都しました。この小墾田宮では、推古天皇が蘇我馬子や聖徳太子といった有能な人材と共に、冠位十二階や十七条憲法の制定など、後世に名を残す政治改革を推進しました。推古天皇が崩御した後、舒明天皇は飛鳥岡本宮に遷都し、その後も皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、天武天皇と持統天皇の飛鳥浄御原宮と、天皇の代替わりごとに宮殿が営まれましたが、これらはほぼ同じ場所に建設されました。現在、これらの宮殿の跡地は総称して飛鳥宮跡と呼ばれています。
当時の宮殿は、天皇の政務を行う場所と居住空間が一体となっており、官庁は周辺に分散していました。飛鳥宮跡は明日香村岡に位置し、広大な野原には建物の柱の位置を示す丸太が点々と据えられています。特に、内郭(天皇の居所の中心部)の南側では、かつて礫敷きで舗装された地面が広がり、そのそばにあった内郭前殿では、位の授与や様々な儀式が執り行われていました。この内郭は、南北約197m、東西約158mにわたる塀で囲まれていました。北へ進むと、石敷きの広場にたどり着きます。この区画には、高床式の掘立柱建物が立ち並び、儀礼用の霊水を汲む大井戸や天皇の私的な空間である後宮があったとされています。このように、飛鳥宮は建物の改築や増築を繰り返しながらも、約一世紀にわたり日本の政治の中心であり続けました。その間には、歴史上重要な出来事が数多く起こりました。中でも特筆すべきは、皇極天皇4年(645年)6月12日に飛鳥板蓋宮で起こった「乙巳の変」でしょう。この日、朝鮮半島の国々から献上された品々を皇極天皇に披露する儀式の最中、中大兄皇子が権力を握っていた蘇我入鹿を討ちました。事件後、皇極天皇は退位を表明し、軽皇子に位を譲りました。その後まもなく、日本で最初の元号である「大化」が定められ、政治体制を一新する様々な改革が実行されていくことになります。
飛鳥時代から日本の政治・文化の中心として繁栄を極めた飛鳥宮跡は、数々の歴史的転換点を見守ってきました。推古天皇から持統天皇に至るまで、約一世紀にわたり宮殿が置かれ、政治改革や権力闘争の舞台となり、古代日本の国家形成に決定的な役割を果たしました。この地の深い歴史的意義は、世界文化遺産登録によって改めて世界に認識され、その貴重な価値が未来へと受け継がれていくことでしょう。