始皇帝の死後の歴史を紐解く:隠蔽された玉璽と皇位継承の闇

『キングダム』を通じて秦の始皇帝に興味を持った方も多いのではないでしょうか。彼の治世を理解する上で不可欠な歴史書が『史記』です。この壮大な歴史書を読み解くと、始皇帝の突然の死後、想像を絶するような権力闘争と陰謀が繰り広げられていたことが明らかになります。本稿では、歴史作家・島崎晋氏による『いっきに読める史記』の内容をもとに、始皇帝の死後に起こった一連の事件とその背後に隠された真実を探ります。
始皇帝の晩年と隠された死、そして皇位をめぐる策謀
秦の始皇帝は、紀元前211年、東郡に落ちた隕石に刻まれた不吉な予言「始皇帝が死んで地が分かれる」に動揺しました。この予言の作者を見つけられなかった始皇帝は、周囲の住民を皆殺しにし、石を焼き払うという残忍な手段で対応しました。同年秋には、使者が巡遊中に神秘的な男から「来年、祖龍が死ぬだろう」という予言とともに璧(玉)を受け取る事件も発生。始皇帝はこれらの出来事に不安を募らせたと言われています。そして紀元前210年10月、彼は最後の巡遊へと出発しました。この旅には、左丞相の李斯と、特に可愛がっていた末子・胡亥が同行しました。
巡遊中、始皇帝は九疑山で虞舜を祀り、長江を渡って会稽山に至り、秦の徳を称える碑を建立しました。その後、琅邪へ北上します。この地では、不老不死の薬を求める方士・徐市が、大型の鮫に邪魔されて蓬莱に到達できないと報告。自分が海神と戦う夢を見たばかりだった始皇帝はこれを真に受け、射手を手配させました。
しかし、平原津で始皇帝は重病に倒れ、自身の死期を悟りました。彼は、長子・扶蘇を呼び戻し、葬儀を主宰させる旨を記した遺詔を宦官・趙高に託しました。ところが、同年7月丙寅の日に沙丘の平台で始皇帝が崩御すると、事態は急転直下で動きます。玉璽の管理を任され、権力欲の強かった趙高は、遺詔がまだ手元にあることを利用し、胡亥と李斯を巻き込み、恐るべき陰謀を企てました。その策とは、始皇帝の死を隠蔽したまま遺詔を偽造し、長子の扶蘇に自害を命じ、胡亥を次の皇帝に擁立するというものでした。
当初、李斯はこの計画に反対しましたが、趙高から「扶蘇が即位すれば、彼と親密な蒙恬が重用され、李斯は今の地位を失うだろう」と説得され、最終的に共犯者となりました。陰謀は計画通りに進み、扶蘇は自害に追い込まれ、彼の後見役であった蒙恬も投獄され、悲劇的な最期を遂げました。咸陽に到着して初めて始皇帝の死が公表され、胡亥が二世皇帝として即位しました。始皇帝は同年9月、驪山に埋葬されました。
権力欲が歴史を動かす
この歴史的な出来事から、私たちは権力がいかに人の心を歪め、大きな陰謀へと駆り立てるかを学ぶことができます。始皇帝という絶対的な権力者の死後、その意思が無視され、ごく一部の人間によって歴史が書き換えられようとした事実は、権力の集中がもたらす危険性を示唆しています。また、趙高と李斯のような人物が、自身の野心や保身のために倫理や忠誠心を捨て去り、計略を巡らせたことは、人間の欲望の深さとその恐ろしさを浮き彫りにします。この物語は、過去の出来事としてだけでなく、現代社会における権力と倫理の問題を考える上でも、重要な示唆を与えてくれるのではないでしょうか。